那智勝浦 〜 日本一の名瀑布へ 〜

「補陀落渡海」と「補陀落浄土」とは?
この海に面した那智の浜や、熊野地方で信仰された海のお守り。梛木の葉っぱ(速玉大社参照)と、航海の神様とされたのが流仏。これは何かって言うと、熊野には昔から「補陀落渡海」って観音浄土信仰があって、生きたままの人間(もちろん僧侶。上人以上)を、船の上に完全に出口のない小屋を造ってその中に一週間分の水と食料と人間を入れて、そのまま海へ押し出のです…
 そう、ある種の入水自殺です。餓死するのが早いか、脱水症状が早いか、気が触れてしまうのが早いか・・・どちらにしても絶対に助からない条件をあえてつくって海へと、海の向こうにある「観音浄土=補陀落浄土」を目指す。
観音(正確には観世音菩薩)浄土も、死後にしか逝けない浄土だと考えられていたのね。
で、その時に船から流れ出た観世音菩薩の仏像を航海の神様としても祀っていたの。後は、そのまま死んだ僧侶のミイラ…
 この補陀落山寺は、那智の浜から歩いても5分程度の場所にあります。お寺自体の縁起(建立された由来)は、もちろん「補陀落渡海」をする僧侶たちの出発を、無事に観音浄土へたどり着くように、との願いと、渡海することによってこの世からは居なくなった魂への鎮魂をかねて建てられたものだそうです…。境内の面積はかなり小さくなっていましたが(昔はもっと大きかったと思われますので)、実際に渡海をした僧侶達の名前を刻んだ碑が海を臨んでおりました。何だか、何とも切ない気持ちになってしまいました。何を思いつつ、残った人たちもどんな気持ちでこのお寺を維持してきたのでしょうね… 
 お寺はこんな感じ。ここのお坊様はかなりきちんと勉強した方のようで、結構突っ込んだ質問してもちゃんと答えてくれます。去年行った時のモノなんだけど(実は)、上がり込んで結構色んな話ししたし、縁起とか残ってる記録とか見せてくれる方でした。興味ある方はぜひどうぞ。
(補陀落について勉強していかないと全然つまんないかも知れませんが・・・)
 「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、『華厳経』にはインドの南端にあると説かれているそうです。観音信仰の流布とともに、チベットや中国にも補陀落は想定されました。チベットではラサ北西に建つ、観音の化身ダライラマの宮殿をポタラ(補陀落)宮と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を補陀落としました。(かなり色々な説があるのよね〜)
 日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といいました。この船出は全国に分布しております。入水(仏教的に読むと「じっすい」)自殺でしか
ない訳ですから〜昔から死への一種の憧れってあったのかな?
 日本国内の補陀落の霊場としては那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがありましたが、記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち半数以上が熊野で行われています。熊野は補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だったそうです。
 この上の写真の船がその模型。小さくてよく見えないと思うけど、こぎ手もおらず、こんなちゃちな船で荒い熊野灘をこぎ出したんだよね。勇気ではなく、何て言うべきなんだろうか・・・もちろん彼等はそれだけ「観世音菩薩の浄土」ってヤツを信じてもいたとは思うけど、かなり哀しいものを感じます。江戸幕府や明治政府からもこの入水を、単にこの世に絶望した果ての、自殺と解釈される事も多く、民衆を混乱させるとして禁止される事になってしまった歴史があります。この寺から、この浜から漕ぎ出していった人達。名前とか残ってましたので、ちょっと右側に載せてみました。もっと古いものもあるのですが、ちょっと見えないので新しく作られた方の碑をとってきました。(小さくて見えないだろうけど…)
 でも、この碑に刻んでもらえたのなんて、正史に残ってる人たちだけだろうからな〜
ここに残されてない、補陀落を目指し漕ぎ出していった、僧侶でもない人たちの方がきっと多いはず…。僧侶でも上人以上なんて、そんなに多くないから坊さんにさえなってない
(仏教的に言うと「私度僧(しどそう。と読む)」)人の補陀落渡海の方が、数としては
かなり多かったはず〜歴史ってそういう面往々にしてあるからね…
 で、これが那智の展望。ちょうど青岸渡寺の
外れあたりから撮ったもの。(あそこ高いので)
那智大社はかなりの広さがあります。
中でバスが走ってるぐらいだし。
高さもかなり(つか高低さがかなりあるんだよね〜)
あるし周囲には切っ先のような、まさに切り立った山々が多いのでちょろっと登ると、すぐにこういう風景が視界に開けてきます(笑)

 全部そうじゃないか!って突っ込みは
まぁ無しにして〜こっからは滝と寺ばっかりになります。興味のある方、お付き合いください(^^ゞ
 無い人にも勿論見て欲しい〜けど既に眠い!って
人も居るんだろうな…とひょひょ
 ここが青岸渡寺。西国三十三観音霊場第一番札所。
那智の滝は観世音菩薩の化身とされているあたりからきているもの。
ここには、他所の大社よりも観世音というか伝説がかなり多くて、相当古いと思われるものもかなり在るんですよ〜。その一つにあの那智の滝に光る観世音菩薩が海から見えたっていう伝説からここが観音霊場だと言われている事とかね。まぁ〜これはもちろんこの山が仏教化してからの話だろうけど…。
 ここ熊野の信仰形態は、仏教が入ってくる前から既にあったものだから。それもシャーマニズム的な純粋な自然崇拝の色が強い。ここも、別に観世音が昔らか信仰されてたんじゃなくて、滝そのものの信仰に、仏教が乗っかっただけだと思う。補陀落渡海信仰のような海信仰ももっと前からあったはず。でなければ古事記の記述はつじつまが合わない。(神武が本土上陸するのって、この熊野なのよね〜。しかも負けて辿り着くの…お兄さんここで死んじゃうし)

これは前回一人で行った時
暑いくらい晴れてた…

ちょっとアンダーで御免なさい〜
天気悪かったのよぅ。許して〜
そして〜これが、西国三十三観音、第一札所前の観音様。
これはお堂の外に立っている銅製の仏像ですが〜(苦笑)
本来のご本尊は、中におられるのですけどね〜
(ちなみに判る人へ〜本尊は如意輪観世音菩薩ですヨ)

 ちなみにこの「青岸渡寺」についてちょっとだけ〜基本的な事(^^ゞ
現在は天台宗の寺社なのですが、縁起(お寺の成り立ち、起源みたいなものと考えて下され〜)は、4世紀に熊野浦に漂着したインドの僧侶「裸形(らぎょう)」上人が、那智の滝に辿り着いて修行の後、観世音(観音様の正式名称)を感得して開基したとか言われております〜(でもこれはきっと嘘…
そんな頃にインドのこんな有名な坊様が来る訳がないー。どっかの無名の坊様が開いたのを、 ハク付けの為にこういう縁起にしているに違いない)
 ただ、この那智の滝は、仏教的な解釈と本地垂迹(仏教と神道の混合した信仰。結構日本独自かも…)思想で解釈する時、観世音と滝の御神体(神道的には大国主命)が合体したような解釈で説かれております〜。滝=観世音=大国主命って事ね。
 そんな訳で、ここが西日本での観世音信仰の札所1番として信仰を集め栄えたって訳ですね♪
 ちなみにここの本堂は〜織田信長に実は焼き討ちされておりまして〜 1590年に豊臣秀吉が弟の秀長に建立させたもので、安土桃山時代の建築様式になっているのデスよ〜
 でもここに納められている仏像は、平安前期〜奈良時代白鳳期のモノ等の国宝もあるらしいです
で、すぐお隣に建っているのがこの「那智大社」
こちらは大社ですから神道です。青岸渡寺からは左の山門をくぐるとスグです(^^ゞ
 麓からは、青岸渡寺へ上る階段と那智大社へ上る階段の両者があって、どっちからでも来れますが〜…ここの参道も
むっちゃくちゃ急な坂です。でも写真見るとさ、あの「きんさんぎんさん」とかが登って参拝した写真出てるし!一応(?)20代の女二人が、100歳越えたバー様たちに負ける訳にはいかない!と、結構意地になって登りましたが〜…途中から足が笑っておりましたヨ。でもちょっと苦労して参拝するぐらいが、寺社仏閣は有難さがアップしていいかーとも思いますがね(苦笑)
私たちは参道の中央階段から上がったので、ずーっと石段登って右側が上の青岸渡寺で、左側がこの那智大社でした。
 しっかしこんな山の上にどうやってこんな立派な社を建てられたのか、昔の人の技術は謎です。規模も熊野三山の中ではこの那智が実は一番大きな霊場です。滝もあるし、西国観音霊場札所一番も兼ねてるからかも知れないけどかなりの規模ですよん。那智大社の主神はイザナミです。
ちなみに「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれてますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなりますねぇ。
その昔、神倭磐余彦命(神武天皇の事ね)がこの地より上陸し、八咫烏の御案内で吉野へ入り、大和橿原の宮で即位して、第一代神武天皇となったと古事記などの日本の古代記には記されている通り。日本国の歴史を橿原以降と考察するならば、この熊野は上陸第一歩の地であり、日本の夜明けちゅ〜か、今の天皇家に繋がる歴史に発祥の地と位置づけられると考えます。
那智山の信仰はこの神倭磐余彦命が那智御瀧を神として奉祀されたのに起因するそうです。以来この御瀧そのものを「大己貴命」として、また「水は生命の母」として崇め尊んでいるらしいデス。(ナムジは男性神なのに、水から母神としての両性の性格を滝に持たせてるあたりが、面白いなーと思うのねん)
仁徳天皇五年に現在地に社殿を移し、熊野夫須美大神(イザナミの事ね)を中心とする十二柱の神々を奉祀してて、この神々こそが熊野十二所権現であり全国に奉斎されている熊野神社の総本社の一社です。
当社の主祭神の“夫須美”とは結(むすび)の意味と考えられ「産霊」とも記し、万物生成発展の力の意で、御神徳を意味し、物事、ひいては森羅万象の根元の力を与える神として遍く世の人々に崇敬され、古今を通じて連綿とその信仰心は変成することなく受け継がれてまいりました内には、神武天皇東征の道案内をした八咫烏が石に姿を変えたという 烏石の他、白河上皇お手植えの枝垂れ桜や平重盛が植えたという樟の木(樹齢約850年)が大きく茂っています。



これが那智大社のお社デス
夕方で閉館まじかだったので
他の人居ません(笑)

 そしてこの上の仏教画が、結構有名な
「那智曼荼羅」ちなみに国宝です。
解説本の表紙をスキャナーで取り込んだけど無理があったかな…
で、那智曼荼羅についてちょっと解説。
(本当はこれだけでかなりぶ厚い本になるってぐらいの
シロモノ)
これは補陀落山寺から補陀落渡海をする光景が
描かれたもの。熊野比丘尼っていう一般人だけど
熊野三山への帰依を流布した尼さん集団がいて、
彼女等が絵解きをするのに使ったのがコレなのよ。
熊野古道はそのまま地獄巡りをする苦しい道のり。
これは滅苦減罪の思想から来ているもので、
(滅苦減罪とは、簡単に言えば生きている間に
沢山苦しんでおけば、罪が軽減され、あの世での苦しみが
減らされるという考え方。日本古来からある思想)
最後に訪れる本宮は現世の西方浄土と考えられ、
那智は観世音浄土の入り口だよ、ここからなら
補陀落へ逝けるんだよ、と比丘尼は寄進を勧めつつ教える訳。
よく見えないかもしれないけど、絵の下中央部に
鳥居があって、そこから船が出ているのが見えるはず。
そしてその右側の橋には白装束の行者が見えません?
これこそが、補陀落渡海そのものなのです。ここには
「極楽」と「地獄」という熊野が持つ両局面をそのまま
図解したものです。熊野信仰事態がかなり民間信仰的
なので、縁起・形式や流れについては不明な点も
多いのですがそれ故に人々の願いも切実です。
古道を苦しんで歩き、地獄巡りを身体の苦痛と闇の恐怖と共に
体感し、巡る三大社にて極楽へ辿り着く…そういう巡礼が
熊野参拝の性格かと、私も考えています。
佛教画としてもかなり優秀ですので、絵画的にも
価値が高いもの。絵解きに使われていたものなので
保存状態は決して良いわけではないけどね(^^ゞ
で、これが年一度行われる那智のお祭り。その名も
「那智の扇祭り」50kgを超える扇神輿(みこし)と
樽に松明をつけて大社から大滝へと向かいもみあう
迫力あるお祭り。熊野って本当に火祭が多い。
火の一族が住んでいたのかどうか…(笑)
で、これは何の御祭かというと、八咫烏こと
武角見が熊野灘から上陸した神武と旧本宮のあった
中須で出会うときの様子をモチーフに
神事として昇華させた姿らしい。
だから山の上からと滝側からとでっかい松明
(扇のついている松明の方が神軍って事で
神武側で、各自が持つ樽の松明が角見側らしい)
がお互いを出迎えるみたいにもみあうらしい。
これを見たい人は7月14日に那智へ行きましょう。
かなりの人が集まりますが、仕方ない。
実は私も行きたいけど、行った事が無い…見たいッス!
「那智の火祭」は毎年7月14日に斎行される当社の例大祭で、もとは旧暦6月14日に斎行されていた神事であり、豪壮な松明の燃えさかる御火の神事から「那智の火祭」と名づけられたものですが正式には「扇会式」または「扇祭」と言うそうです。観光パンフではごちゃごちゃかな?(笑)
この祭は御遷宮御鎮座を偲ぶ神事、神霊を振い起す神事、万物の生成発展を祈る神事であるそうですヨ。
火祭当日、午後2時頃に「別宮飛瀧神社」参道域で行われる御火神事で用いられる大松明の重さは約50キロ程で、桧の割板を桶のように輪じめにしたもので12体奉製され、この大松明は那智山地区の氏子の人々が奉仕するそうです。
祭の主体である扇神輿は幅1メートル、長さ6メートル程の細長い框に赤緞子を張り、金地に朱の日の丸を描いた扇を組み合わせ、9ヶ所に計32本、白銅鏡八面、それに「光」「蝶の鬚」「緑松」「桧扇の花」などを飾り付けます。その型は「那智の大瀧」を表しているそうです。
 神倉山の祭りといい、迫力ありそうですよねー体験したいな〜(>_<)これも、生きている間に一回は見ておかないと!
世界遺産に熊野・吉野・高野山が登録されるから、
機会はまだまだあるかな?でも混むのかな〜(凡俗な私)