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熊野古道をゆく(笑) |
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ちと潰れてしまっていますがこれが熊野でもらった観光パンフです〜
勝手に画像のっけたら怒られるかな…(汗)
熊の古道といっても、中辺路付近などは全然出てませんが…
だいたい、那智から本宮までの古道の概略図と思ってくださいマセ
私が歩いた古道と言ったら、ちょうとこの辺りなのでのせてみました。
なんせきつかった!!
山の高低さが急なので、
道全体が急なトコが〜〜
私は小雲取山付近から
本宮までは、 旅行道具(一週間分)を持ったまま、一人旅の時歩いて…地元の人に怒られました(笑)危険過ぎたそうです…無知って怖いわね(まるで人事) |
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2000年の熊野旅行はーあの大雨で全然歩けませんでしたので〜
これは1年前の写真も入っています(^^ゞ
歩いてこその「熊野古道」現在残っている石畳とかは
室町〜鎌倉初期のもの。熊野詣でが一番盛んだった頃っていうのが
平安末期から鎌倉中期ぐらいまでかな?この時代の上皇とか
天皇が、熊野御幸(くまのみゆき、もしくはくまのごこう)無茶苦茶行ったからね。
←左の写真なんかは、かなり整備されてるし、坂も揺るやかな方。
果無山脈の峰は〜もっと急なんだよー歩きづらいのよ〜(>_<)
実際行ってみれば判るけど、(いや地図見てもらってもいいんだった)
大阪から海沿いでも山道でも遠いし、名古屋方面から伊勢廻りで行っても遠いよ〜。
高低さもあるし。いやぁ、それが従者連れて1ヶ月かけて馬とか牛と籠で
巡礼したっていうんだから幕府なり、朝廷なり傾くよね…(^^ゞ
1年に2回以上行ったりした時も有ったし、とにかく「なんで?」ってぐらい
巡礼に訪れた。特に白河上皇と息子の鳥羽上皇の御幸は有名。
天皇や上皇はこの厳しく、人を拒むような山道、海道に何を想ったんだろうね〜
…興味津々。一説には、己の原罪(政を疎かにし、天道、人道に背いているって
自覚と恐怖がそうさせたんじゃないかって、解釈もできるけどね…
やってた事が、この頃の天皇、上皇、法皇は異常だったからね〜ホント) |
で、これが那智大社側の熊野古道入り口。「大門坂」の看板です。
私たちはここまで、バスで来ました〜。バス停からもちょっとだけ歩きますが…
これ、メッチャ民家の横というか、民家に挟まれてました!(苦笑)
ここから、公道にはどうしたって見えない「私有地?」みたいな
細い道を通って、上のような石畳の道へ上がっていきます。
大門坂入り口からすぐではないので、ちょっと迷うかも?見えないし〜
(私は、最初入っていいのか心配になった…←小心者なのよ)
これが、雨で濡れるとも〜すべるすべる!!ちなみに龍さんは
見事にすべって転びましたよ(^^ゞわざとでは転べない程に(笑)
さすが超合金SEGAで出来た装甲は何ともなかったけどさ(笑)
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ちなみに左側の写真が、民家の横を通って(笑)
しばらく行ったトコにある、それらしい「大門坂の入り口」なの。
でっかい杉(だと思うけど、実は違ったりして…汗)が2本
デーンというか、ドーンという感じで立っております。
この奥がやっと石畳並ぶ、それっぽい(?)熊野古道(^^ゞ
よく宣伝とか、ガイドブックとかに出ている「熊野古道」の写真は
中辺路以外は、ここで撮っているクサイ(勝手な推測?)
熊野古道って言うと、高野山から本宮までのルートが「王子社」が
沢山あって、有名だけど本来はねーもっと長いものですよん。
私も「小雲取り越え」と「大雲取り越え」、中辺路も一部歩いたけど
結構つーかかなりすごい山道なんだよね。
熊野の山は高度としてはそんなに無いんだけど、
とにかく急なんだよ!正にきっさきのような感じ。
一気に上るしかない山だから、登るのは一苦労。
こんな風に石畳になっているのは室町から鎌倉にかけて
整備されたほんの一部。もっと歩きにくい道いっぱいです!! |

ちなみにこれが私の歩いた小雲取り超あたりの、熊の古道概略図〜
所要時間で見ると、たいしたことないじゃん!とか思われるかも知れませんが…山道といっても
所詮、西関東の高尾とか小仏峠とかアノ辺しかあるった事のない私には、大層辛い山道ーでした(>_<)
途中で熊には会わなかったけど、イノシシと猿らしき動物には遭遇…5月だったんだけど
イノシシ、発情期じゃなくて助かったヨ〜危険度としては熊と変わらないからね(苦笑)
関東って坂とか丘陵地多いから、平地にしか住んだ事ない、平野部の人よか
坂には強いつもりでしたが…所詮はつもりだったと言う事ですナ
…まぁ、そういう事ッス!でもまた行ってみたいなー山の大気が濃いんだよねー
ここに比べれば、秩父34観音札所は、そんなに辛くなかったヨ(^^ゞ
秩父も足だけで歩いたからね、私〜あそこは全部回りきれたよ。土地面積が比較にならないか(笑) |
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ちなみにこれが「王子社」ってやつなの。
この「王子社」って何かっていうと、京都から和歌山県熊野神社への
参詣の途中、所々に、若王子(ニヤクオウジ)を勧請して祀ってある土地の総称。
お社に王子って付けてる。全部で99王子あります。
まるで華厳経信仰や法華経の反映があるような 区切り方だけどね。
(例:東海道五十三次)判らないのもあるけど、いかにも
仏教説話からとったものや、それに習ったものが多いし信仰されてる。
それぞれの王子社には、一応逸話とかがあって、悲話が多いけど、
これは日本特有だね(笑)かなり一時は廃れて無くなったものを、
後世に再建して観光資源にしてるみたいでもあるけど…
それは言いっこなしかな?そもそも「若宮王子」っていったら、
若くして死んだ武士(もののふ)の霊魂や、
無念や怨念の激しい荒御霊(あらみたま)を慰めるため、
祟りをおそれての宮だから、恐らく熊野三大社に参拝、巡礼したくても
道半ばで亡くなった人とか、あの世につながっていると当時信じられていた
熊野だから、亡き身内とか親しかったひとを偲んで
「王子社」を建立したってのもあるんじゃないかと思うし 、
「一里塚」的な性格も持ち合わせてるだろうなって、私は考えております。 |
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また、熊野の神様(大国主命or観世音菩薩)は穢れとか女だからとかっていう理由で
参拝を拒んだりしない。そう、極端な話「月もの」の時の女でもライ病の人でも
参拝可能なの。そういう性格というか、位置づけの神様なのよね〜
それで有名な逸話は「和泉式部」の話。彼女が参拝しに行ったときに、丁度月ものに
なってしまった訳。で、もちろん「穢れ」だから、
一ヶ月は聖域とかには入れないっていうのがセオリーだった。
特に女が聖域とされた寺社・仏閣に入れないのは血の穢れがあるからなのよ。
この説話自体は、後の世で作られた話だとは思うけどね〜女の浮いた話といい
その激しいまでの女っぷりは、当時から有名な和泉式部だしね。説得力と知名度で(笑)
でも、まぁ熊野の神様達はそんなのは関係ないつーか
気にしない神様だから。あそこはね〜行ってみればわかるけど
気取った「聖域」臭さが全然ないの。オーガニックな世界。
命の循環に対して、たいそうおおらかですね(笑)
まー「古事記」とか読めば、日本の神様がやれ月の穢れだの
女はダメだとか、気取った事言えたもんじゃないから(笑)
ざっくばらんで、ずさんな神様達なので
当時、女性が参拝できる寺社仏閣が少なかったので
女性には特に熊野の神様達は人気だったのさ。
この写真は、「和泉式部の墓」彼女のお墓は、大社寄りの熊野古道沿いにある。
死者の国があると言われた、あの果てなし山脈を望む斜面にポツンと望んでおります。
歴史的に見ると、彼女の晩年は謎なので、本当のお墓がここかは不明なの… |

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