そして雨の龍神温泉を後に、やって来ました熊野本宮。 龍神スカイライン通って、見渡す限り続く 「果無し山脈」と呼ばれた紀伊山脈を越えて〜 もちろん私らは車(いや軽だけどさ)で通ったんだけどさ 近年やっといい道が出来て車も楽になった との地元の意見だけど車でも凄い山ですわ。 この道を1000年ぐらい前、牛車と馬と徒歩で 向かい進んだとあれば、こりゃ凄い旅か巡礼 (天皇なら御幸<みゆき>)ですな。 でも、「蟻の熊野詣で」と称された程、 沢山の人がこの険しい山越えて参拝したんだな〜。 信仰心なんだろうねー多分。 物見遊山で越えられる山道じゃないからね。 あ、そうそう。この辺で熊野信仰について脱線しよう。 |
![]() |
まぁ、熊野の信仰形態自体がかなり複雑! 何でって、今でも女入れない(俗に言う「女人禁制」)な 山あるし山伏実在だし〜。 ホント、週末山伏って人、知り合いにいるもん! 平日は会社員やってて、週末は山に来て山伏修行・・・イカス☆ つーか、精神バランス取るためなんだろうと思うけどさ。 精神性が欠如した会社つーか下界の社会構造って 疲れるからね〜(シミジミ) いいよな〜関西圏。こーゆー山が近くにあって (って4時間ぐらいか?) 山伏の修行とか、信仰形態は完全に調べたりまとめたりは かなり不可能ですね…。 口伝で部外者には教えないっていう考え方が強く残ってるから。 研究者が男であっても女であっても教えてくれないし 山伏自らが体系学なんて著さない。 ま、こーゆ〜信仰があってもいいんじゃない? って思うけどね。興味ある人は「五来重」さんの研究本を 探して読んでみるといいよん♪ 今まで読んだ中では(って数が知れているけど) 一番分かり易くて詳しかったから。研究者になるわけで無し、 十分です〜(^^ゞ |
![]() これは〜本宮入り口デス この鳥居を抜けると…結構な階段が 待っております。サンダル不可(笑) |
右側上の写真は、晴れている時の本宮社殿入り口。 かなり狭いかな? 下の方にも書いてあるけど、 本来の熊野本宮は今有るものより8倍の広さがあったんだよ。 洪水で流れてしまって、現在の地に鎮座してるんだもの。 … で、雨!雨! 大雨の熊野本宮〜〜(T_T) 写真ボケて見えるのはー 雨で煙ってしまったから。(苦笑) 巫女さんが傘さして歩いているのまで 撮れてしまった(^^ゞ傘、蛇の目傘じゃないしー 普通の傘なんだもん!興冷め。 古典的表現なら「いとわろし」 これは本宮社殿ではなく、別院なの。 社殿は撮影禁止なので門だけ〜 |
![]() |
右図が、その社殿入り口の門。ちょっと怪しげな垂れ幕・・・ 「甦る日本!!」とかありますが〜まぁ気にしない。 だってここに祀られてるのは「天照大神」じゃないので、 現在の天皇家とはあまり〜それは伊勢神宮でどうぞ〜!! ここでは「伊耶那岐・伊耶那美」が中心で祀られてる。 一応「天照大神」とか「ニニギ」とか現行天皇家に繋がる 神々もいるけど、基本的に熊野の神社は「大国主命」と 「八咫烏」。本当に出雲系なんだよね〜面白いことに。 ここの人達は出雲からの移住人が多かったか 同種族の何かがあったか、伊勢系の神道への反発か そんな所だろうか? にしても、雨凄いでしょ?よく見えなくてゴメン(^^ゞ カメラの腕もないので、更にスイマセン…m(__)m |
![]() |
![]() 熊野に行ったとき(一人で行ったときね)は 丁度龍年だったのよん |
紀伊半島は昔から多雨な地方。 地形的にも位置的にも大雨に見まわれやすい。 でも、熊野本宮は1200年以上健在だったのよ。 明治政府が、この地方の信仰形態や文化価値を 踏みにじるまでは。 左図は今年の干支色紙。 龍神の加護があったはずの熊野。 加護はね〜、感謝とか敬虔さがないと 受けられないのよ。 |
明治政府な何をやったかというと! 熊野の山を丸裸に!!そう、「神々が住まう山」として地元の人々が 大切にし、限られた山守しか入れない禁域として守ってきた森を 材木確保の為に、切り開いてしまったの。結果何が起こったかって… 熊野本宮流失。大洪水が起こって熊野川の中州に鎮座していた本宮大社は流れてしまったの。 書簡も、鏡も御神体さえもね。宝物殿にあった貴重な品々も流れてそれっきり。 まさに「山の怒り」だそうな。だから、ここに写真で出ている本宮大社は明治時代の再建造物。 ハッキリ言って狭いし小さい。本宮跡地ってあるんだけど、今回はこの大雨で断念。 「どんなに大雨とか台風とかが来ても、熊野川が氾濫しても本宮だけは流れなかった。 でも、明治に山が開かれてほんの10年経たないうちに、本宮は流れた。 山が、神様たちが怒ったんだ。」と去年熊野へ一人旅をした時に、車で案内してくれた 親切なボイラー技師のオジサンは言っていた。そーゆーのってあるんだな、と思ったのよ。 |
![]() |
![]() |
左の写真が旧大社跡地のもの。 去年行ったときの写真なので 晴れておりますが… 木々が深ければ、その山々の保水力もまた大きくなる。 洪水から河も麓の命も守ってるのは 山の木々とその保水力を持つ 山肌でしかないのに… 熊野の人たちはそれを肌感覚で 知っていたんだな、と感心した。 だから恐れもするし、感謝もする。 大事な事だよね… |
ここ、本宮の縁起としては〜八咫烏(やたがらす)こと、武ツノミの神と初代天皇となった神武が再会した場所に 鎮座していたのよね〜。熊野川の中洲にだから建立されてたの。伝説(古事記とかね)になぞらえて、この本来 中洲だったとこにあったんだけどさ…いや、流れちゃったので〜洪水で(>_<) 古事記とかで読むとさ、海側から逃れ逃れてヘロヘロになりつつも山人たちの助けを得て、奈良盆地へ向かう 神武一行と、内陸側から神武と合流すべく(奈良盆地あたりに住んでいたとされる、スネナガヒコ等に 捕らえられていた所を、逃げて主である神武を助けに行くトコなんだけど)険しい熊野の山々を走るツノミとの 再開のシーンは結構感動的なんだよ〜。私のやってる古事記がそこまでいつかは行くとは思いたいけど… 何時になるやら〜(苦笑) 昔から熊野地方では、死者の国=あの世=浄土は、山の向こうや海の向こうにあるものという 文化があったのよ。 相当に「山」には怖い思いも、感謝も深かったはず。行ってみれば判るんだけど、熊野の山は綺麗。原生林に近い色合いだから 密度が濃くて形も何も色々な木々で構成されている。杉の緑とやせた地表が剥き出しの関東圏の山とは大きく違う。 もちろん杉植林された山もあるけどね〜現在でも守られている山もある。那智の山。あそこだけは、どんな偉い人間や 幕府や政府とかが言っても、絶対に山に入れないし木も切らせないできてるんだって。雰囲気違うからね、明らかに。 それは、また、那智大社の所でお話しませう! |