<密厳浄土>

@     *密厳浄土です。
私個人は、ここ二番目に逝きたい浄土かな?
ではでは、とりあえずちゃんとした説明をば。

 「密厳浄土」とは大日如来の浄土の事。
<密厳>とは秘密荘厳の略で
空海の著書『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』
第10番目が秘密荘厳住心で
真言密教の究極の境地を表す。
この浄土の中心は大日如来の法界宮殿があり
その回りに阿弥陀や釈迦を初めとする
四仏の(四方に位置する如来)浄土があり、
さらにその十方の諸仏、
四波羅密菩薩(しはらみつぼさつ)、十六菩薩
十二天妃、二十八輪王などの曼陀羅の諸尊と
その国とが取り巻いているという。
密教ではこの浄土に三密行によって
即身に入ることが出来ると 説いている。 
で、つまりどう言うことかというと仏
(大日如来)を中心とした世界なんだけど
まず「大日如来」から。

 こちらは名前通り、太陽をイメージした如来仏
それはそのまま宇宙の真理=光=太陽って訳。
(かなり割愛してます。勘弁!)
真言密教はその根本経典に「大日経」と
「金剛頂経」っていう二つがあって
大日如来はそのまま大日経、
金剛頂経の中心尊格。(要するに一番尊い如来)
華厳経に説かれる「毘廬遮那仏」と元は一緒
(音を優先して訳したか意味中心で
訳したかの違い)
古代イランに起源を持つゾロアスター教の
アフラ・マズダーとも起源はかなり近い。
世界中、古今東西を問わず
原始宗教概念が必ず持っていた
「太陽信仰」から来る
仏教の諸仏の中でもかなり古い如来。
火を使うようになってからなのかは判らないけど
人間の心は「闇」の中からは
「希望」とか「望み」などを見いだす事ができない
暑すぎたり、日照りは怖いけど
やっぱり「光」の中からだけ
「希望」を紡ぎ出す事が可能。不思議だよね〜
(砂漠地帯の宗教では、
太陽は悪魔で月が女神らしい)

 この「大日経」を編纂したのは
誰かとか判らないけど、太古の人々も
「太陽の光」の中に「真理」があると
思ったんだろうね。でも判る話し。
太陽を中心に、他の如来が四方にいて
その回りには菩薩がいて、
天部(〜天って名前の付いている仏。
四天王とかはこれ)がいて、
伝説にもなっている偉大な王達が居て、
その国があって人も色々いる。
これは、まさにこの世界そのものな訳。
俗に言う「須弥山世界観」では
そうなっているのさ〜(^^ゞ
A 私らに仏達の国は見えないし、
天部も菩薩も彫刻か仏画でしか
拝んだことないけし、経典なりでしか
知る事は出来ない、遠い存在だな〜と
やっぱり想像しちゃう
彼等はね人間の姿を持っているから
単なるフツーの人間として
私たちの 共存しているらしいのですよ
己の為でなく人の為に何かしようと決めて
それがちょっとした…
そうだなぁ…多分だけど
ボランティアみたいな事でもいいんだと思う
脚の悪い人が信号渡るのを
手伝ってあげることとか、
目の悪い人に看板とか時刻表
読んであげること、言葉の通じない
異文化の人に道を教えるのだっていいのよ
それは全て「菩薩」の働き。
一生を捧げて、仏門に入るのは
ちょっと(かなりか)大変だけど
そうでなくても、伝教して歩いたり
何でも良いらしいのよ。

  そう、空海もマザーテレサも
ダイアナ妃だって菩薩業でしたとも!
少なくとも私はそう思う。
私ら人間は「天使」にも「(女)神」にも
「悪魔」にもなれない中途半端モノ。
でもね、菩薩にはなれるんだよ〜(>_<)
「困ってる、弱ってる人たちが
せめてこうなれるように
自分は、これこれをしよう。叶うなら、
こんな風に人を助けたりもう苦しまないで
良い世界を造って見せたい!」っていう
願を立てて(発心するって言うのさ)
それに向かって努力する人は
みんな菩薩です。
頑張り続けるのはそりゃ楽じゃないけど
やってみせる精神力と身体能力を鍛えろって
事だろうね。やっぱり人の好き嫌いは
あるしさ。仏教は、間違いなく己に対して
一番厳しい宗教だよ。
言い訳して、99.99%の人が守っては
いないだろうけどね〜(^^ゞ
>もちろん私もやれてません
他に良くある「神様の思し召し」とかって、
何でもかんでも神様のせいにして
言い訳できないのが仏教だから。
こりゃしんどくて、みんな
オクラ替えしちゃうか(^^ゞ
でも、私は仏教のこういった
ストイックさちゅーか
孤高で純真な考え方好きだけどね。
今のダメなままの自分で居続けるの嫌だから
何とか出来ることは努力したいし
してる方が、極論だけど「カッコイイ」でしょ?
色々偉そうな理屈こねたって
どっちが好きかキライか、カッコイイと思うか
格好悪いと思うかだもんね〜。
私はそう思うのですよん。


B 空海の説く「密厳浄土」っていうのは、
全てを「否定しない」世界。
仏教の特徴的な「人間性の否定」
「迷いと穢れを持つ人間臭さへの否定」 から
一切、解き放たれた世界観となっている。
要するに、仏に象徴される理想的な人の姿、
有りようってのも存在するけど、
どうにも汚くて、ダメな人間的なモノも
動物的なモノも全て存在する。
「否定することからは何も生まれない。
あるがままを有るがままに受け止めて
認めていくこと」って淡々と説く。
綺麗だけでいられない人間を知り
切り捨てて、諦めていくのではなく、
全てを含有していく有機的な浄土。
男も女も動物も植物も、そしてもちろん
仏も存在する浄土なの。

 要するに、現世と
何ら変わらないんだよね構造的に。
空海の説く「仏」はすなわち世界の有りよう全て。
季節が巡ったり、それに合わせて色々な植物が
萌え出で、土に帰り巡っていく命。
雨が注いだり太陽を感じたり、暑かったり寒かったり
物哀しかったりする自然現象や、
食べたり食べられたりする事それに伴う人の心や、
動物の行動、それら全てが仏の心の動き。
それが 慈悲だったり教えだったりしてるって
そう説いている。
それらに逆らっても何も産まれない、
含まれている自分と
その心を重ねて同調していければ、
おのずと仏の心を感じ聞こえてくる。
それに気が付く事が出来たら、そのプロセス
そのものが「悟り」へと導くものだって事らしい。
ダメな時もある。
  でも、ダメで居続けない努力をするために
日々精進し、智慧を磨いておきなさいって
教えだそうな。
(ずばり、この辺は高野の坊さんたちの受け売り。
でも判りやすいでしょ?)

C 仏教は元々
「真理という名の月をさす指」だったのよ
でも、後世の仏教僧達が「経典学」といわれる、
経典の研究学問において
(経典の歴史的な検証みたいなの)
その指を必死こいて研究しちゃったもんだから
訳が判らなくなったの。(苦笑)
本来なら単にその指が指している方向を
素直に向けば「真理」はお月さんとして
自分を照らしてる訳だから、すぐに見えるし判る訳
でもその指してる指がどんな材質だとか、
硬度は、色は、温度はとか時代検証とか
仏さんとしては判って欲しいことをまるで無視して
見当違いな所を2500年も研究し続けてるのが、
現状の「仏教」。学者か、学問僧にしか
判らない世界と化してしまっている。
そんな所で悩んじゃもったいない訳よね。

 でも、まぁ宗教学とか哲学も、
人間が成長する為つか切磋琢磨するための
学問ではどこでもなくなってるかー
考古学とか人類学みたいに、そういった事を
研究して、当時の生活生態とか実態を調査する様な
学問ならそれでもいいんだろうけど…
仏教学をやっている大学教授とかが、
知識は凄いけど人間的にはダメダメつか、
薄情すぎる人も沢山いたし
少なからず大学で見てきたよ。これはもうさ、
そういった知識なりを、単なる学問としてしまうか
人格形成に至るまで己の意識なりを高めるか
自分にも厳しくなれるか、それでも自分を高めよう
努力しよう、とか思って努力するしか
ないかなんだろうなぁ〜(-_-;)

お経も、まずかなり勉強しないと
右から左へと流れてしまい何言ってんだか判らない
あれだって、言うなれば
「お釈迦様、説法物語」であって
結構面白い説話とか、為になる話し
いっぱいなんだけどさ〜もったいないよね。
せめて今の言語で読める内容に
誰かしてくれないかな(^^ゞ


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