京都旅行記
京都ホテルをホームから  
  京都駅の新幹線のホームからです…巨大なホテル?
いやぁ、数年ぶりにきてビックリ!京都も変わったよねー
昔はさ、(って中学ぐらい?)京都って、まずホームから
見えたの東寺(正式には『教王護国寺』)の五重塔が
見えたはず…京都駅の周り、高層ホテルばっかりに…(T_T)

  ちなみに見えにくいとは思うけど雪降ってます。
「アナタは来ない〜 ♪」といった感じでしょうか?(苦笑)
  京都駅自体が激しくギュンギュン…じゃなくって(笑)
「どうしちゃったの?!」ってぐらい変わっちゃってさ〜
私的には「横山●輝建築」って感じかしら?
背が高くて、でかい上デザイン重視なのか安全性や
概観性をまるで無視したヘンテコ建築増えた…
つーか、京都駅そのものがヘンテコ建築に…
 
 あれ、消防署から●適マークもらってないよ(T_T)
『ガメラ3』で派手に壊されてたけど、あれはねー
立体構造的に、強度ないっすよ〜
誰がデザインしたんだか知らないけどさ…

  いや、だってさ、これだよ?!
この異様な立体構造!!何処の横山マンガだよ(>_<)
<ファンの人ゴメン
我が友ズミは(同行者、その弌 ちなみに横光ファン)
違う!これは手塚建築だ!横光デザインは違う!!
と言っておりました。

 この写真では見えませんが、このず〜っと下。
ほとんど地下?みたいな所に通常のJR線の ホームや駅が
存在しています。だいだい…70m.は下方向と思いねぇ!
ちなみに、この上のフザケタ建築物は何かというと
駅デパート?みたいなもんです。上の階には飲食店とかあって
屋根みたいな骨組みだけアーチの下の通路らしきものは
本当に避難用も兼ねた通路…(非難口の蛍光灯あったし)
地震とか天災時にここを逃げろと言うのか?!
真っ先にダメになりそうな駅ビルです。
  京都駅ビルらしい…(笑)

  京都って、かなり国内外を問わず観光資源で成り立ってるはずなのに
京都府そのものが、こんな事しちゃっていいのかね?!
ここの半分はホテルだよ!駅ホテル!!そりゃ、電車降りてすぐホテルってのは便利かもしれんけど
こんな京都を、何処のどんな観光客が喜ぶと思ったのかしら??
そりゃさ、地元の人にしてみれば「市民税、地方税高い。生活必需品を
買うためのデパートも百貨店もスーパーもなく、娯楽施設もろくに無いダメな街」との事ですが
よりによって、地元の人にも役に立たなそうなブランドデパートと
半端な飲食店(ジャンクフード多し)の駅ビルじゃあね〜(-_-;)
 そう思いません?あたしゃ、地元の人の意見が聞いてみたいよ。前の概観ってヤダったのかな?
こーゆー何だか今っぽい建築物のほうがいいのかしら??
でも、所詮お役所仕事で決まっちゃったんだろうから民意がどうであろうと知ったこっちゃない!
とか、そんな所なのかもね。(お役所、信じてないんで)
銀閣寺入り口
  で、銀閣寺。雪も降ってたしきっと綺麗だろうと踏んで
来てみました。いいねぇ、渋くてさ。適度に残雪。寒いけど(^^ゞ
銀閣寺の縁起(お寺が建立された経緯や成り立ちの事)
について行ってみましょうか。

 「銀閣寺」っていうのは俗称で、正式には『慈照寺』と言って
現在の臨済宗の寺院になる前は足利義政の山荘「東山殿」。
ここは正に「東山文化 」の発祥の地であり文化的中心だった所
(足利義政とはアニメの「一休さん」にも出てきたあの将軍様です!
ちょっとダメな感じに言われる事が多い)
  【東山文化
 足利義満の将軍時代に代表される文化。
だいたい1460〜1500年ぐらいまででしょうか。
北山文化と桃山文化との境目難しいですね〜。
枯山水や水墨画などが有名。
雪舟や世阿弥がこの時代の人。 わび・さび文化の発祥時代。
  東山文化から現代への影響は大きく、茶道や華道の思想や
様式を決定づけたのはこの文化。雪舟が中国(当時は明)へ渡り、
大陸の水墨画を学び伝え、それを狩野派(狩野正信・元信親子)によって
大和絵に取り入れられたり(要するに日本式の水墨画が確立する)、
「わび・さび」の思想が出て そのまま 当時の偉人”世阿弥”によって
【能】の文化が華開いていく。
  それに比べると、この直前の文化である「北山文化」→足利義満の
金閣寺に代表されるアレ。キンピカ極彩色文化とは対照的。
かかった金は圧倒的に北山文化の羽振りの良さには劣りますが、
現代の生活様式にも影響があり「日本的」と呼ばれる文化の根幹を成しているのは
明らかに「東山文化」でしょうね〜。一般説でもそうなっておりマス(^^ゞ

枯山水に雪!
銀閣寺

  話しズレましたが・・・えー「慈照寺」の縁起でしたね(^^ゞ
義政が東山殿の造営に着手したのは1482年2月4日(文明14年)で
約一年半かけて竣成したそうです。東山殿の建物は十カ所と
伝えられていて、そのうち阿弥陀三尊像を安置した東求堂は
構えの善美などから 亀泉集証をして西方浄土と言うべしとまで
嘆声されたほどらしい。(あくまでも「慈照寺縁起」によれば)
 まぁ、本当にお金をかけられてたのも 凝った作りができたのは、
十あったうちのほんの一つとか二つだったはずなんだけどね。
時代背景から、もう足利幕府は義政の贅沢病も手伝って
かなり傾いていた頃だからね〜(--;)観音殿って建物の天井には、
義満の金閣寺に倣って銀箔を貼り付けたとかさ、
作庭は相阿弥がやったとか(これは確実に嘘。
この当時相阿弥はかなり若くてまだ名前なんて売れてないから
将軍から声なんてかかりっこない)後世に作為さ
 
  また、ここには唐宋の名画・和漢の名器や茶の湯関係の逸品が数多く貯えられ 愛玩されたのは確か。
義政自体が、政治としての政をないがしろにし将軍とは名ばかりの放蕩モノだったのは有名だけど
それ故に、彼にしかこの文化は庇護出来なかったと思うよ、私はね。
 現実逃避的で、己の殻に閉じこもり好きなことだけをやっていた将軍の文化だって事で、西洋至上主義で
日本文化にヘンテコ倫理振りかざす方々には低く見られている文化なんだけど、それもどうかな、 って感じがする。

   元々、「文化」だとか「芸術」に生産性とか建設的な発想を求めること自体が間違ってるでしょ?
無駄に見えたり、ろくでもなかったり、 すぐ目に見える成果とかがないから「芸術」なんだし「文化」を
薫習するはずなんだもの。「文化人」ってゆー人達は決して聖人君子では成り得ないよ。
人間倫理からは大きく外れてたり、ダメ人間だったり放蕩モノでないと逸品は創れない。
感情や、精神の起伏が普通の人と同じだったら、あんなに凄いものは見えないって。
 あの有名な世阿弥だって、元を正せば足利義満の小姓じゃん。御稚児さんじゃない〜
(よーするに男色の相手方をされる美少年ってやつデス)そこから出て、あれだけの世界観確立したんだからね。
常人じゃ見えないモノや聞こえない声をきいていたんだろうなぁ。ちなみに、彼の書いた『風姿花伝』は
一読の価値あります!かなり難易度高いけど、「日本人、すげぇ!!」と思えます。
日本の美徳概念とか論語とは又違う人間哲学の粋が凝結しているっす!
空海もだけどさ〜天才って違う世界とか次元の住人じゃないかと思ってるのよね。(私、かなり本気でしてよ)。